[ 暇潰し ]





コン、コン


無機質な音が響いた。俺は手元に落としていた視線を上げ、そちらへと向ける。ユーリではなさそうだ。
誰だ?
「どうぞ」
キィと扉が開かれる。
「やあウェラー卿。失礼していいかな」
扉の隙間から現れたのは、ユーリの親友である猊下だった。
「猊下、どうしました? 俺の部屋になんて珍しいですね」
「ちょっと暇でね。たまにはウェラー卿と雑談でも、と思って。渋谷じゃなくて残念だった?」
少しね。でも彼は今ギュンターと勉強中だ。
「そんなことないですよ。とりあえず、こちらへお座り下さい。今紅茶を淹れますから」
そう云って俺は読んでいた本を閉じ、猊下の分の紅茶を淹れ、自らのも淹れ直した。
「ありがとう。そういえば、何度か渋谷にくっついて入ったことはあったけど、改めて僕一人で来たのって初めてだよね」
湯気が漂うティーカップを受け取りながら、猊下は部屋の隅々まで眺めていた。
「そうですね。猊下は普段眞王廟に滞在されてますから、あまり城内でお見かけすることもありませんし」
「渋谷をからかいにたまに来るけどねー」
あとフォンビーレフェルト卿もね、などと付け加えながら、ウェラー卿も分かるでしょ? と同意を求めてきた。確かに自分も彼らであそ・・・いや、彼らの相手をするのは、まったく退屈しない。
「で、俺に何を訊きたいんです? ただの雑談の為だけに、あなたはわざわざ立ち寄ったりはしないでしょう?」
何か用事があっても、特に急ぎではない限り相手を自分から探すようなことはしない。偶然に会ったらその時に済ます。
猊下はそういう方だ。
「うん、大した事じゃないんだけどねぇ。ウェラー卿、血雨浴びたことあるよね?」
「は?」
あまりにも唐突な質問に、俺は反応が遅れてしまった。
「ええ。―――― ありますよ」
「その時、君はどうしたの?」
まるで読み終えた本の感想を訊くかのように、目の前の子どもは尋ねてきた。
「容赦・・・ないんですね」
「そお? 答えるのが怖いとか、そんなとこ?」
「いえ、そんな事は・・・・・」

ただ古傷が少しだけ、疼く。

「前だけを見ていましたよ。ひたすらに。その時の俺達には、護らなければならないものがありましたから」
「人を斬ることに躊躇いは?」
ユーリと同じ、だが彼のそれとは全く違う深い闇色が、俺の視点を奪う。
「ありません、でしたね。優先すべきものの前に、躊躇いというのはただ邪魔なだけですから」
「そうだよね。いちいちビクついてるようじゃ、今渋谷を任せてなんておけないよ」
冷めた紅茶を口に運ぶ。味がしない。はっきり云って、猊下の真意がまったく掴めない。
「でも、ありますよ。恐怖なら今だって」
「へぇ、何?」

「ユーリを失うことと、貴方を失うことです」

一瞬、猊下の動きが止まった。そして怪訝そうにこちらに顔を向けた。
「・・・渋谷のことは分かるけど、どうして僕もなの?」
「貴方が失われることで、ユーリの心もきっと、壊れる」
ふぅん、と納得したように軽く頷く彼は、静かに目を伏せた。
「なるほどね。確かに僕に何かあれば、渋谷は間接的に傷付くことになるだろう。でもさウェラー卿、それって君にとって、結構複雑な心境なんじゃない?」
くすりと笑い、上目で俺を指す。
何が、云いたいんだ。

突然彼は立ち上がり、俺の前に来た。そして跪き、呆然として動けない俺の右手を取ると、あろうことか、その唇を手の甲へと落とした。
「なっ! 猊下!?」
―――― それでも、僕を護ってくれる? この手で。渋谷の為に、彼が傷付かないように・・・・・」
ゆっくりと深みのある声で、しかし最後の言葉は、何処か愛しげに。彼は俺に云った。
「云われずとも、俺の全てを賭けてお二人を・・・・・ユーリを、御護りしましょう。ですからこんな悪ふざけ、もう止めて貰えませんか」
「なーんだ。バレてたの? 凄い顔してたから、ちょっと心配しちゃったよ」
にやりという表現が相応しい笑みを浮かべ、猊下はティーカップを取って、今度は自ら紅茶を淹れ始めた。俺はいつの間にか力が抜け、猊下が再びもとの椅子に座るまで、ただその行動を見ていることしかできなかった。
「僕もね、君と同じなんだよ。僕等は有利を失うことが一番怖い。それ以上の恐怖はないんだ」
猊下は暫く手の中の紅茶を眺めていたが、結局飲まずに俺の机の上へそれを置いた。
「それじゃあ僕は戻るとするよ。いい暇潰しになった。愉しかったよ、ウェラー卿」

「最後にこれだけ云っておくけど、渋谷は絶対に渡さないからね」
「俺としては、初めからお譲りする気なんてありませんけどね」
パチリと、火花が散った。
相手は満面の笑み。俺もそれに爽やかに繕った笑顔で返す。
じゃあね、と軽く手を振り、猊下は俺に背を向けた。
結局俺は、彼に試されていたのだろうか。

「あ、一つ付け足し。誤解されても困るから教えとくけど、僕、別にウェラー卿のこと嫌いじゃないから」

分かった? と振り向き様に片目を瞑り、彼は俺の部屋を出て行った。
今更ながら、自分はとんでもなく厄介な方を、敵に回してしまってようだ。






05.08.10